長浜城城下町
カネイ中川仏壇は、「長浜曳山祭」で知られる長浜城城下町にて、創業し現在にいたります。
長浜曳山祭は、日本三大山車祭りのひとつに数えられ、2016年にはユネスコ無形文化遺産にも登録されました。
長浜は、武士や豪商が支配した町でなく、町人による自治運営がなされてきた町です。天正元年(1573年)、長浜城の城主となった羽柴(豊臣)秀吉は、今浜の地を「長浜」と改め、全国に先駆けて年貢や租税を免除を行うなど、城下町の繁栄に取り組みました。明治維新まで商工業都市としての発展し続ける大きな力となりました。
「長浜曳山祭」は、秀吉に初めて男の子が生まれ、城下の人々に金を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って長浜八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりとされます。当初質素だった「曳山」と呼ばれる山車は、江戸時代中期には、浜縮緬、ビロード、蚊帳などで蓄積した町の富によって、日本各地の名工を招き、世界各地の名品を取り寄せ、現在の豪華な形を取るようになりました。
宮大工をはじめとする数々の技法が、この曳山を制作するために培われ、仏壇づくりに応用されることなりました。同時期に、藤岡和泉が仏壇の様式「浜壇」として創案しました。
また長浜は、北国街道の要所でもあり、宿場町木之本を中心に、江戸や京都との文化的・経済的・人的な交流も盛んに行われてきました。
平成11年(1999年)、現在の地へと移転いたしましたが、カネイ中川仏壇は、永らく北国街道沿いにて商いを続けてまいりました。
創業年
カネイ中川仏壇には、「塗師業」や「塗師職業」と記した掛け札や看板が多数残されています。
年表記について、最も古いのものは、「文化四年七月吉日」と記された刷毛です。色粉を混ぜた漆によって書かれた文字は状態もよく、きれいに残っております。
文化4年は、西暦でいえば1807年にあたります。江戸時代後期、町人文化の最盛期とされ、伊能忠敬が全国地図を作る旅に出た頃です。
遅くとも、そのころには仏壇づくりに励んでいたことがうかがわれ、カネイ中川仏壇の創業年とさせていただいています。
「カネイ」の由来
なぜ屋号に「カネイ」が付くのか、よく聞かれます。
カネイという屋号の接頭辞は、同じ中川姓を持つ、近隣で同業を営む職人と区別するためであったそうですが、次のような意味もございます。
「イ」は、第4代前の中川伊兵衛の『伊』から。
「カネ」は、『お金』と『矩』の2つの意味が掛かっています。
聞き慣れない矩(カネ)は、直角に曲がったL字型の定規のことです。大きさや角度を測るために使う大工道具です。現在、曲尺(かねじゃく)、差金(さしがね)直尺(ちょくじゃく)とも呼ばれます。
これらの意味から、まっすぐ世の手本となるように商売に取り組めば家族も商売も栄える、という願いを込め「カネイ中川仏壇」と名乗っています。